恥の絵
厚地朋子
2020.4.3 金 – 4.25 土
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「厚地朋子の蛇腹式透視図法」
岡部るい(福岡県立美術館学芸員)

遠近法の発見以来、絵画に複数の消失点を据えて描くことは、伝統的な西洋絵画において、イリュージョンを提示する上でより効果をもたらすものして数多く用いられてきた。厚地もまたイリュージョンを画面上に構築するために複数の消失点を据えている。しかし、伝統的な西洋絵画において遠近法は、その気配を消すべく用いられたのに対して、厚地はその気配をあらわにする。厚地の絵には、空間ごとのパースのみならずモチーフごとにもパースを描き分けることから、画面の内外に複数の消失点が存在することになる。そうして、場所や時間、光源さえ異なる空間が複数描かれるのだが、それでいて空間の分節と接続の妙によって、それらはあたかも蛇腹のように連なり、画面全体としての調和がはかられているのだから驚く。今回発表された作品は、大胆なモチーフの配置が特徴的だが、これらもまた複数の消失点に則って描かれていることに気が付くと、これまで厚地が取り組んできたことの延長線上に本作があるということで、腑に落ちる。そんな厚地に敬意を表して、今回は、「蛇腹式透視図法」として厚地の作品を考えてみたい。もちろん、この言葉は、厚地の作品を語りたいがために造語したことを先に断っておくとしよう。

以前から厚地が好んで登場させるモチーフに蛇腹状のパーテーション(衝立)がある。隣り合う面と面が一辺を接して連結し、画面前後や左右交互にジグザグとパターンを反復させるというその成り立ちに魅了されたのだろう。出品作にも登場するカーテンもまた蛇腹状のモチーフといえ、画面にリズムを生む。しかし厚地にとってパーテーションやカーテンは、単なるモチーフにとどまらない。それらは、画面上に描かれるだけで複数の消失点を生む、つまり、構図にも大きく関わっているのだ。過去作に、蛇腹状のパーテーションを正面から描いた作品があるが、それぞれの面には、異なる時空が描かれていた。このことは、厚地自身が、蛇腹のパーテーションをパターンの反復、リズム効果としてのみ用いているわけではないことを示すだろう。厚地の単純ならざる構成、複数の空間の連なりは、まるで蛇腹状の構図として私の目には立ち上がってきた。蛇腹式透視図法という言葉がふと頭に浮かんだ。

蛇腹状の絵といえば、屏風の存在が思い起こされるだろう。しかし、厚地の蛇腹式は、屏風のように物理的制約(垂直に立ち、左右に開く)に縛られることなく、平面上で可動域豊かに開き閉じ、回転し、さらに自由に組み合わされる。隣り合う空間は接続し、互いを侵すことなく蛇腹のように連なっていく。まさに、視線を導くその空間と空間の接続にこそ、厚地のものの見方、主観が組み込まれているとして着目すべきところだろう。このことは、目に映る世界と、思考、記憶をなめらかにも、鋭くも、行き来する厚地の世界観のあらわれともいえる。そもそも遠近法は、人間のものの見え方を平面上に再現するために生まれたことを思えば、この蛇腹式透視図法は、人間のものの見方の奥深さを表しうるひとつのフレームといえるのではないだろうか。もちろん、蛇腹式透視図法は、厚地の作品を見るときの一つの見方にすぎない。しかし、そうした絵を描く厚地の手法は、実に可能性に満ちている。

最後に、個展タイトルについても触れたい。「恥の絵」。これまで厚地は、画家としてあるべき姿を保つうえで、自重気味だったことがいくつかあったのだという。しかし最近の心境の変化もあって、厚地自身が、絵と関わり合う上で「恥かしい」と感じていた事柄に目をむけていたところに、今回の発表となったようだ。今回厚地がテキストに挙げた3つの恥を読むと、恥を問題意識と言い換えることができるように感じた。そうであれば、厚地のそれは、近代以降現在に至るまで多くの画家たちが多かれ少なかれ抱えてきた問題意識と言えるのではないだろうか。近代以降、個の重視によって絵を描くことは孤独な営みとなった。厚地もまた、何を描くことも、どのように描くことも自由の中にいるからこそ、自らの問題意識に向き合わざるをえないのだろう。しかし、厚地にとっては、殊更に超克を目指すものではないようだ。アトリエでほがらかに話す姿に、心境や状況の変化に自分をやわらかくして泳いでみる、そんなイメージを厚地に対して抱いた。逃げることでもなければ、恥は恥のままに。今回厚地が示したことは、画家であるが故の一つの誠実な在り方として清々しい、と私は考える。